日記

こんばんは。けんちゃんです。今回も日記を書いていきます。読んでいただいた方にも日記を書いてみたいと思っていただけたら良いと思います。自分も日記を書いて見たいと思っている方に読んでいただきたいです。私は毎日の自分の行動を反省し、謙虚な姿勢でいるために日記を書きます。

1月5日

十日ぶりに出勤した。半強制的に朝八時に起きなければいけないことが嫌に感じた。もしかしたら、自分が行きたい時間に会社にいくことができるようになったら、もっと仕事をすることが好きになるのかもしれない。バスに乗って向かっていると、なぜか明るい気持ちになった。目の前が淡い光で満たされているような気分だった。先週までは先が見えずに鬱屈した気分だった。これは、年末の過ごし方が良かったからだろうと思った。友人と楽しく桃鉄をよりもしながら酒を飲んだり、女友達に会って楽しく過ごしたり、一人で旅をして、旅館に泊まり、温泉に入り、雪景色を楽しむことができる窓際で物思いに耽ったり、高校時代の友人に会って色々な価値観を知ったり、家族と楽しい時間を過ごしたりした。自分の目標や、人間関係に対してどう向き合っていくか、どんなことに今自分が悩んでいるのかをじっくりと炙り出すことができたのだ。本当にいい時間になった。やはり、一人旅でじっくり考えることは大事だと思った。執着せずにあっけらかんな自分になれた。今日は家に帰ったらカレーを作りたいと思う。noteもやってみよう。1月6日カレーを作った。炒める順番や、具材の切り方で迷ってしまった。ほうれん草を入れたのだが、入れすぎたと思っていたのに、いざ水を入れてみてみると信じられないくらい少なくなってしまった。次は入れすぎだと思うくらいに入れてみたいと思う。作っている時にカレーは時間のかかる料理だなと思った。鍋の方が圧倒的に簡単である。しかし、鍋よりもカレーの方が脂溶性ビタミンの摂取が効率的である。水溶性ビタミンは熱に弱いため、無駄になってしまう。栄養を取ることには鍋は適していない。人参は乱切りに。なすは輪切りに、ほうれん草は5cm間隔(口に入れやすいように)。肉は豚バラ。水の量はカップがなくて測れなかったため、適量、ルーは6かけら入れた。それでは、シャバシャバすぎてあまり美味しくなかった。ぼくはドロドロのカレーが好きなのだ。だからCoCo壱のカレーはあまり好きではない。失敗の原因は、野菜から出る水分量を全く考慮していなかったことだ。次は、野菜をもっと大胆に入れて、水を入れる量を減らして、ドロドロとしたカレーを作りたいと思う。カレーを作っていて、母のことを思い出した。母のつくるカレーは普通だと思う。人参、ジャガイモ、豚肉でカレーのルーは二種類を混ぜて使っていた。スパイスを使うとか、ナスやピーマンを入れるとかアレンジは一切なかった。意外と合理的というか挑戦はしないタイプなのかもしれない。理系のような脳みそだと思った。そういえば、母はそろばんが得意だった。意外とロジカルな思考の持ち主なのかもしれない。だとするならば、文法をしっかり教えてあげれば、言語の勉強も好きになるかもしれない。ぼくは料理をする上で色々と試してみたいと思う。友人に料理を教わっていた時は、理屈ばかり気にして、なんでその切り方じゃないといけないのと聞きすぎて、「そんな切り方なんてなんだっていいんだよ、感覚だよ」と言われ、ぼくはイライラして喧嘩をしてしまった。今思えば、食べる人に合わせて切り方や、味の付け方も変わるため、正解がないのだった。料理を教わると言うのは、おかしいことなのかもしれない。料理自体も偶然できたもので、決まった材料も決まった切り方もない。ただ食材が調味料と形を変えて混ざっただけ。文章を作ることに似ていると感じた。文字は決まった形で存在するが、それをどう組み合わせても自由だ。ただ、人気の常識的な組み合わせが決まってしまっているだけ。君が代が、カレーのようなものかもしれない。文字を覚えれば、あとは自由。食材の特性を覚えれば、あとは自由だ。自分は思ったよりも料理が好きらしい。1月7日今日は遅刻をしてしまった。8時40分までに到着しなければいけないのに、起きたのは8時35分だった。起きた瞬間嫌な予感がして、スマホの時間を見た時、絶望した。皮肉なことに左腕で目覚ましを抱いていた。そのせいでスイッチを押して、目覚ましを止めてしまっていた。高校時代は何回も遅刻をしていたのだが、社会人になってからは初めてだった。やはり自分はダメなやつなんだと思った。怒られるのがいやという感情は一切なく、自分に失望するのがとても辛かった。夜更かししたわけでもなく、目覚ましをかけ忘れたわけでもなく、スマホの充電が切れていたわけでもない。改善策がない寝坊だった。一つあるとするならば、目覚ましを手の届かないところに置くことくらいだろう。信頼を失ってしまった。次からずっと「こいつは遅刻をするルーズなやつだ」という目で見られてしまう。仕事を頼まれることがなくなってしまう。悔しい。こんなことだけで、自分が自分らしく働くことができない。自分が会社で笑ったりしてはいけないような気分になる。負い目を感じながら生きる。バレーで何回もミスをして、チームの人に申し訳なくてどんどんボールに触る勇気がなくなっていくのと同じ感覚だ。思い切ったプレーができなくなる。だから、時間の約束を破ってしまうのが嫌なのに。自分の立場を圧倒的に弱くしてしまう。損しかない。ここで縮こまってしまっても意味がないから開き直って明るく生活しよう。次から絶対に寝坊しないようにしよう。明るくなってからは寝ないようにしよう。そして、寝るときには何時か見てから寝るようにしよう。大学の時も時間ギリギリに起きるようにしていたから、何回も遅刻をしてしまった。ギリギリに起きるという習慣が悪いのだろうか。どうやったら、仕事の前に息をつくような習慣を作れるか。よし、Threadsで聞いてみよう。遅刻から連想されることはなんだろう。そういえば、今の会社の最終面接の時も遅刻をしそうになった。あと1分でも起きるのが遅かったなら、面接を受けることができていなかった。こんな失敗をしてもまた寝坊した。社会を舐めているのか。怒られても怖くないとか、どうせ死にはしないと思っている。緊張感を失っているんだ。そうだ。遅刻してはもうダメだと思っている環境なら遅刻をすることはない。今の仕事場でリラックスして働けている証拠なんだ。だとするならば、遅刻してきてくれる友人がいるならば、舐めているとも言えるが、信頼しているとも言える。ただ、許してくれるからと言って遅刻をしていいことには絶対にならない。気持ちの問題だ。俺はもう遅刻をしたくない。期待を裏切りたくない。1月8日発表会があった。そこで、原稿を作りすぎていると、自分の気持ちが伝わりにくい、逆に、原稿を作っていないと言葉に詰まってしまう。この塩梅が難しい。同期の中に原稿を作り込まず、その時の思いつきで発表している人がいた。他の用意を周到にしている人の誰よりも、彼のものが一番感動した。気持ちが伝わってきた。熱かった。一対一で対話しているような錯覚をもたらされた。顔が熱くなった。部屋の温度は低いのに。自分の発表はひどくつまらないものに感じた。発表するのが嫌になるくらいだった。自分の気持ちを乗せて発表しないと意味がないと思った。見てくれる人に楽しんでもらうためにはどうしたらいいのだろうか。自死だったどんな発表を聞きたいのか。感動したい。勉強したい。自分が得する情報が欲しい。なにを知りたいんだ。自分が知りたいことだけではだめ。自分が当たり前だと思っていることでも,意外と他人からすると新しい発見ということもあり得る。日々の暮らしでなにを知りたいんだろう。読み手の背景を想像する。久しぶりに尊敵する上司が出社してきた。彼が来ると新鮮だ。滞っていたものが奇麗に流れるようになる。献血で血をたくさん抜き取られて、新しい血が作られるような感覚だ。今年の目標を一緒に話した。彼の目標は,勉強をして新しい資格を習得すること。新しいことに触れること。自己投資をすること。(今まで三百円の&オフの本も買わずにいた)自分にお金と時間を使いたいとのことだった。かれは32歳だ。僕がその年になった時にそのような向上心を持ち続けることができるのか心配になる、なぜそのような成長意欲があるのですかと聞いてみると。自分の名前を世に残したいからとのことだった。世の中じゃなくて小さな範囲でもいいから残したいとのことだった。僕と少し動機が似ていると感じ嬉しくなった。漫画。チを見てからそういう考えを持つようになったとのことだった。人の人生を変えてしまう作品とは素晴らしいものだと思う。自分もそういうものが作ることができる人になりたい。1月9日ラーメンを食べに行った。ずっと気になっていて行けていなかったお店だった。友達と三人で行った。明日から三連休なので最高の気分でお店へと向かった。車中での会話も盛り上がった。友達だが、会社同期でもある。後部座席に乗って、二人の頭だけを見ながら、この人たちと出会えてよかったとしみじみと感じた。会社に入ってから友達ができるとは思っていなかった。本当に幸せだ。当たり前の日常にも思えるが、今日は本当に幸せなことだと思った。しかし、あと一ヶ月で彼らともお別れの時間がやってくる。また別れの時期だ。仲良くなるのは嬉しいことなのだが、この別れがその嬉しさを上回ってしまうほど悲しい。どうせ時間が過ぎて仕舞えば、その悲しさも薄まっていってしまうことも寂しい。なぜ出会った後には必ず別れがやって来るのだろう。それは新しい出会いが待っているからだろうか。自分は新しい出会いなど望んでいないのに。永遠を手に入れたら私は不幸になるのだろうか。終わりがあるから、今を充実したものにするように切実に生きる。という考えがあると思う。それならば、生まれてからずっと一人で生きてきて、死を知らない人は今を退屈しながら生活していくのだろうか。ぼくは死というものを他人との関わりの中から知った。自分一人で生きていたら死を意識することは無いと思う。死を全く意識しない世界とはどのようなものなのだろう。毎日を全力で生きるためには、死というものを認識しなければならないし、明日死ぬかもしれないという可能性を強く想像しなければならない。それはとても難しいものだと思う。私は今、永遠のものが欲しいと思っている。永遠というよりは自分が死ぬまで寄り添ってくれるものが欲しい。別れた時の寂しさ、喪失感が嫌いだからだ。でも自分自身は死ぬまで必ず一緒である。だから、自分一人で楽しいことをたくさん見つけた方が幸せなまま生きていけるのではないか。〈皮肉なことに、一人で完結できる人ほど、他者との出会いを純粋に楽しむことができる。「寂しさを埋めてほしい」「生存を助けて欲しい」という下心がなく、「一人の時間も楽しいけれど、あなたと過ごす時間は、また別の良さがある」と余裕を持って相手を眺めることができる。他者との関わりが「生存のための必須科目」から「人生をより豊かにするための贅沢品(嗜好品)」へと変わる〉自分一人で完結するように努力することは、他人と関わるときの「下心」を減らすために必要なものである。そして、せっかく一人で完結できるようになって、孤独でいるのは勿体無いから、心を開いて他人との関わりを受け入れていく姿勢が重要になってくる。これは嗜好品で気持ちよくなるためのマナーである。

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